第465号(2005年05月13日)「とっとり豆知識」より
●後醍醐天皇の遷幸ゆかりの地
鳥取県と関わりの深い歴史上の人物として、後醍醐天皇を外すことはで
きません。鎌倉時代末期に正中の変・元弘の乱と二度の倒幕計画に失敗し、
京の都から鳥取県を通り、隠岐島(島根県)まで遷幸。隠岐島を脱出後は、
再び鳥取県を通り、還幸。そして建武新政を始めるわけですが、還幸途上
の船上山での合戦は特に名高く、鳥取県の史実を鮮やかに彩っています。
ところが県内での遷幸、還幸の足跡が確定していません。
後醍醐天皇は京都を出発後、兵庫県の須磨、明石を経て岡山県の院庄へ
到着、そして鳥取県内に入ったようです。で、そこからが特に難解。岡山
との県境周辺には後醍醐天皇の通過伝説が数多く残されていて、遷幸コー
スが幾通りも成り立つのです。
「岡山県久世から中和村を経て、鳥取県の下蚊屋に入った」、「岡山県
美甘村、新庄村を経て、四十曲峠を越え鳥取県の板井原に入った」、「岡
山県大佐町大井野を経て、伏谷を通り四十曲峠を越え、鳥取県の板井原に
入った」、「岡山県大佐町大井野を経て、明地峠を越え鳥取県の根雨に
入った」などが主なものでしょうか。
その通過伝説ですが、例えば下蚊屋(さがりかや、日野郡江府町)では
このようなものです。
「後醍醐天皇がこの地を訪れ休まれたとき、村人は蚊屋を吊ろうとした
ところ、蚊はいないから吊る必要はないと下げさせた。これを由来にこの
地を下蚊屋と呼ぶようになった。」
下蚊屋から桝水高原の途中に御机(みつくえ、日野郡江府町)があり、
ここにも伝説があります。
「この地を通過する際、特別に休む場所がなかったため、家の中に机を
三つつなぎ合わせて休んでいただいた。以降、この地を三机と呼び、御机
の地名になった。」
また、根雨(ねう、日野郡日野町)の近く、二部(にぶ、西伯郡伯耆町)
には、山の中腹を平坦にして、後醍醐天皇の休息場をつくったという話が
残っています。
後醍醐天皇はいずれかのコースを通って、米子市安養寺に到着。それか
ら島根県の安来方面に向かったと考えられています。
しかし何故こんなにあちこに伝説が残っているのでしょう。知名度の高
さ故なのでしょうか。影武者の存在も考えられます。
地図と伝説の残る地をつなぎ合わせて、自分なりの遷幸コースを考えて
みてはいかがでしょうか。
遷幸ほどではないにせよ、県内の還幸コースも色々あるようです。これ
は別の機会に。
(J)