メールマガジンとっとり雑学本舗


第678号(2008年08月15日)「とっとり豆知識」より

 ●鳥取士族の西南戦争(中)

   前回は鳥取市歴史博物館(やまびこ館)で開催中の展覧会「鳥取士族の
  西南戦争−ラスト・サムライの決断−」のレポートをお届けしました。今
  回は、明治維新という時代の大きな変革期に、鳥取県はどのように姿を変
  えていったのか。時代の渦に巻き込まれる「鳥取士族」たちの様子ととも
  にお伝えしたいと思います。
  
   まずは、幕末の鳥取県の情勢から。当時の因州藩主、池田慶徳(いけだ
  よしのり)は、幕府最後の将軍、徳川慶喜の兄という立場上、薩摩藩・長
  州藩を中心とした討幕勢力に加わるか否か、難しい選択を迫られていまし
  た。しかし、幕府崩壊後、明治元年に勃発した戊辰戦争(旧幕府の残勢力
  と新政府との戦争)では、新政府側への従軍を決意。「鳥羽・伏見の戦い」
  「江戸城の開城」などの主戦場に多くの兵士を送り込み、新政府側の勝利
  に貢献しました。
  
   新政府による新しい日本の国家形成が進められる中で、池田家が治めて
  きた因州(因幡国・伯耆国32万石)も、明治2年の版籍奉還により「鳥
  取藩」、明治4年の廃藩置県により「鳥取県」にその姿を変えていきまし
  た。「あれ?それ以前から『鳥取藩』と呼ばれていたのでは?」と疑問を
  持たれたかたは、当本舗第612号、第616号を読んでみてください。
  おそらく、すっきりと疑問が解決するのではないかと思います。
  
   さて、明治維新により、最も劇的に生活が変化したのは「武士」。かつ
  ての「士農工商」の身分制度は廃止され、「四民平等」の時代に。名称も
  「武士」から「士族」に改称。そして、明治6年の徴兵令により、独占的
  に軍事義務を負うことの対価として支給されていた家禄も廃止されて生活
  は困窮。さらに、明治9年には武士の特権であった帯刀も禁止され、急速
  にその権威も失っていきました。
  
   このような士族を取り巻く状況の下で、鳥取士族たちはどのような生活
  を送っていたのか、やまびこ館の奥村寧子(おくむらやすこ)学芸員にお
  話を伺いました。
  
   奥村学芸員によると、鳥取士族の多くは相当苦しい生活を送っていたそ
  うで、中には政府や地方官庁などに働き口を得るものもいましたが、慣れ
  ない商売に手を出すなどして失敗するものも多かったようです。ちなみに、
  「士族の商法」ということわざは、この時代の士族たちを揶揄したことが
  その由来です。

   当時の鳥取士族たちの様子を物語る資料の一つとして、『鳥取県史 近
  代・資料編』に掲載されている「因伯士族貧富表」があります。これは士
  族たちを「資産に余裕のある者」「自活に差支える者」「貧困無産の者」
  「飢餓に瀕する者」に分けて、その戸数・人数を示したものです。
  
   これによると、「資産に余裕のある者」の人数は全体のわずか2パーセ
  ント程度。「貧困無産の者」が6割以上を占め、10人に1人が「飢餓に
  瀕する者」に分類されていました。さらに、明治9年1月18日付の東京
  日日新聞には、「(鳥取)士族はいずれも借金多く、先ごろ家禄の六分通
  り渡りたれども、借金を返すところでは無く、利息にもたらぬとて、此頃
  は、青葉に熱湯を掛けたるが如し」とも記されています。

   このような中、全国各地の士族たちの間で新政府への不満が募り、相次
  ぐ反乱へとつながっていきました。その最大かつ最後の反乱が、西南戦争。
  鳥取士族たちは西南戦争をどう戦ったのか、そして、鳥取県の姿はどう変
  わっていったのか。また次回ご紹介します。
                               (MM)
    ○とっとり雑学本舗第676号「鳥取士族の西南戦争(上)」
      http://www.pref.tottori.jp/kouhou/mlmg/topics/676_3.htm

    ○とっとり雑学本舗第612号「鳥取県の名前の由来(その1)」
      http://www.pref.tottori.jp/kouhou/mlmg/topics/612_2.htm

    ○とっとり雑学本舗第616号「鳥取県の名前の由来(その2)」
      http://www.pref.tottori.jp/kouhou/mlmg/topics/616_2.htm