●戦国時代の鳥取に戦った山中鹿介(上)
今年は長持ちしていた桜ですが、今週に入って県内の平野部では花びら
も散り、変わって若葉の香る季節に移りました。鳥取市鹿野町にある鹿野
城跡も桜の名所の一つで、城主であった亀井茲矩(かめいこれのり)は善
政をしき、多くの業績を残したことで有名です。
鹿野城跡に散る桜を眺めていると亀井茲矩の義父にあたる山中鹿介(や
まなかしかのすけ)のことが思い起こされます。以前読者アンケートで山
中鹿介を取り上げて欲しいという声を頂いていたこともあり、彼はどのよ
うに戦国の鳥取を駆け巡ったのか、自分なりにそのアウトラインを駆け足
で辿ってみました。
山中鹿介は、幼名を甚次郎(じんじろう)、実名は幸盛(ゆきもり)、
通称は鹿介ですが、講談などで鹿之助とされたものもあるようです。「我
に七難八苦を与えたまえ」と月に祈ったという逸話などが有名ですね。
1545年に生まれた幸盛が1578年に亡くなるまで活躍した16世
紀後半といえば、天下を目指す信長、秀吉などの武将や、群雄割拠する戦
国大名が、互いに、ついたり離れたりしながら勢力争いを繰り広げる戦国
の時代。
当時、今で言う中国地方東部は、いわゆる天下統一を目指した信長・秀
吉らと西日本最大の戦国大名とも言われる中国地方の毛利氏との戦いの前
線にあたり、各地で激しい戦いが行われました。そこに位置する鳥取県も
その舞台となったわけです。
1580年と81年の二度にわたる鳥取城を巡る戦いはとりわけ激しく、
兵糧攻めにより秀吉軍が勝利した話はよく知られているところですが、こ
れは、石見国(島根県)から丹後半島(京都府)まで山陰地方一帯を巻き
込んだスケールが大きく激しい戦いの象徴的な場面でした。
さて、幸盛が活躍したのはその鳥取城の戦いより少しだけ前の時代。幸
盛は現在の島根県安来市広瀬町冨田にあった富田城を拠点とする尼子氏の
家臣でした。1560年に尼子晴久が亡くなり義久が家を継ぎましたが、
当時勢力が盛んだった毛利元就の脅威にさらされていました。
1566年にはついに富田城が毛利方の手に落ち、その後家臣として幸
盛は尼子の再興を図ろうと、東奔西走し戦い続けることになるわけです。
次回は、幸盛の奮闘とその後についてお伝えしたいと思います。
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